シャムロックが花ひらくとき

2012年11月6日

(アカツメクサ)

 9年前に、はじめて「北アイルランド」に行った。
 
 北アイルランドは、スコットランドやウェールズとともに、イギリス連合王国を構成する地域である。しかし、ここは他の地域とはちがって、海を隔てたアイルランド島にあるのにイギリスに属する、という特異な状態にあり、それが「北アイルランド紛争」というややこしい問題の根っこにある。

 北アイルランドをめぐる紛争について、私は、争いが地域内のプロテスタント系住民と、カトリック系住民のあいだで起きていたことや、カトリック系の自衛組織だったIRA(アイルランド共和軍)が、かつてロンドンなどで派手なテロ活動を繰り広げたことは報道で知っていたが、詳しい背景はよく知らないままでいた。しかし現地に行ってみて、紛争には、長期間にわたったイングランドによるアイルランド支配、という暗い過去が深くかかわり、その結果生まれた抑圧構造の下で、カトリック系アイルランド人がひどい差別を受けていたことを知った。そして数百年も前に人為的につくられた構造が、現代にも尾をひいている厳しい現実を見て、大きな衝撃を受けた。

 その旅行のとき、私はアイルランド人がこよなく愛する「シャムロック」という植物のことも知った。それは三つ葉のクローバーに似た、3枚の葉を持つ小さな草花で、アイルランドの原野に群生し、見渡す限りを緑で埋め尽くす。シャムロックは、アイルランド人が強いられた哀しい運命を象徴するとともに、民族の誇りを表現する花でもある。私は北アイルランドに滞在中、シャムロックに寄せるアイルランド人の熱い想いに触れたのである。


×××

 私が家族とともに訪れたのは、アイルランド国境に近い、北アイルランド第2の都市、ロンドンデリーだった。この地に住む夫の旧知の友人、アンディを訪ねることが目的だった。10月半ば、緯度の高いロンドンデリーは、すでに晩秋の空気に包まれていた。

 アンディはカトリック系のアイルランド人で、元司祭という経歴を持っていた。アメリカで長く司祭活動をしていたが、脳腫瘍を患ったためにキャリアを断念し、ずいぶん前に治療のために故郷のロンドンデリーに戻っていた。独身時代にアメリカで10数年暮らした夫は、アンディとアメリカで出会い、親しくなった。

(ロンドンデリー郊外の海)

 ロンドンデリーで、私たち一家は、やはりカトリック系アイルランド人で、アンディと親しい友人、フランシスの家に泊めてもらった。フランシスは私たちとはまったく面識はなかったが、「数日間出張で留守にするから、自由に家を使って」と、気前よく自宅の鍵を渡してくれたのだった。彼女は到着したばかりの私たちに、暖房のつけかたなどを説明したあと、出かけていった。
 
 フランシスはインテリアデザイナーで、家のなかには洒落たランプやアンティークの家具が置かれていた。リビング・ルームでは、ガラスの花びんのなかで白いフリージアの花束が、今にも花開かんばかりに、つぼみを膨らませていた。ロンドンデリーの夕暮れの訪れは早く、昼間でも室内は薄暗い。少しでも明るい雰囲気を、と滞在中に満開になることを見込んで活けていってくれた彼女の心遣いが、うれしかった。ふと、小奇麗なキッチンの窓辺に、三つ葉のクローバーの植えられた小さな鉢があるのが目にとまった。

 3泊4日の滞在中、アンディの案内で街のあちこちに行ったが、私は冷徹な現実に圧倒され続けた。紛争は1998年に、当時のブレア労働党首相の下で、当事者間の歴史的な和平合意が達成し、ロンドンデリーでは、警官や兵士が警戒にあたるかつてのようなものものしい光景は、見られなかった。しかし、真の和平への道のりはまだまだ険しいのが実態で、カトリック系住民とプロテスタント系住民の「分離」の状況は、想像を超えていた。彼らはそれぞれ、まったく違う地域に住み、スーパーやレストラン、レジャー施設も別々。同じ街にふたつのコミュニティがあることは、一目瞭然だった。

 紛争で亡くなった活動家たちが眠っているという墓地に、アンディが連れて行ってくれた。中央に小道があり、広い墓地はふた手に分かれている。アンディはその分かれ目に立ち、「ここから向こうは、プロテスタント住民用。こちら側はカトリック。私たちはこうやって、死んだ後も分離され続け、交わることは決してない」と言った。

 アンディは、多くのカトリック系住民と同様に、北アイルランドとアイルランドの統一を、強く願っていた。「800年に及んだイギリスの植民地支配が、争いの根源にある」と、アンディは力を込めた。

ロンドンデリーの下町にある“フリー・デリー”で。前は2003年当時の二男。
”ここから先はフリー・デリー”の標識

 史実は、アンディの主張が正しいことを証明している。アイルランドには、太古以来、アイルランド民族の祖先であるケルト系ゲール人が住んでいた。しかし、11世紀になってイングランドに征服されて以来、アイルランド人の民族文化はことごとく押さえつけられた。くすぶり続ける反英運動を抑えるために、その後イングランドは、アイルランドへの弾圧を強め、本国から入植者を送りこんだ。

 入植政策は女王エリザベス1世時代の16世紀に激しさを増し、とくに北アイルランド地域は反英運動の拠点となっていたため、エリザベス1世を継いだジェームス1世統治下の17世紀に、大規模な入植が実行された。大量のイングランド人とスコットランド人が北アイルランドに送り込まれ、多くの地元アイルランド人は家や土地を奪われて、他地域に移住させられたのである。そのやり方は、後にアメリカ大陸で、ヨーロッパからやってきた白人が次々と地元インディアンの土地を奪い、征服していった様子と似ている。このときに、北アイルランドでは、イギリスから来たプロテスタント系の人々が多数派となり、残ったアイルランド人は少数派として支配される、という構造ができあがったのである。

 ロンドンデリーへの入植は、イングランドの都市、ロンドンに割り振られたので、ロンドンのイギリス人社会がごっそり、移植された。もともと「デリー」という名だっだ街が、「ロンドンデリー」に変わったのはこのためだ。だから、アンディをはじめ、カトリック系アイルランド人は、けっして「ロンドンデリー」とは言わない。

 この抑圧構造は、現代にいたるまで続いた。アイルランド独立戦争さなかの1920年、北アイルランドのプロテスタント系住民らがイギリスに残ることを希望したため、ここだけを分離することが決められ、翌年、地方議会が設置された。そして北アイルランドは1949年にアイルランド共和国が正式に誕生した後も、そのままイギリスに残留したのである。

 しかし、地方議会選挙の有権者は税金を納めることのできたプロテスタント系住民に限られるなど、カトリック系住民はあらゆる面で明らさまな差別を受けた。カトリック系住民が、1960年代末にアメリカで起きた公民権運動に刺激されて、差別構造の撤廃を主張しはじめたのが、北アイルランド紛争の発端となったのだ。その後、カトリック系住民とプロテスタント系住民、さらに北アイルランド自治政府とその上にあるイギリス政府、のみつどもえの紛争が過激化し、1970年代から90年代にかけて武力衝突に発展していったことは、周知の事実である。

(”血の日曜日事件”を描いた壁画)


 アンディと一緒に、街の旧市街から中心部を歩いた。繁華街を抜けて街の中央を流れるフォイ河に向かって下町に入ると、1972年に起きた「血の日曜日事件」の爪痕が生々しく残っていた。これは、差別の改善を訴えるカトリック系住民のデモに、警戒にあたっていたイギリス軍兵士が発砲し、14人が死亡した事件である。建物の壁に大きく、兵士がデモ隊に発砲する様子や、住民がけが人を運ぶ光景が描かれている。事件の起きた広場には慰霊碑が立ち、犠牲者ひとりひとりの名前が刻まれていた。犠牲者のうち7人は、10代後半の青年だった。

 そのすぐ先は、カトリック系住民たちが「フリー・デリー(自由なデリー)」と呼ぶ空間である。「フリー・デリー」とは、血の日曜日事件が起きる前の1969年1月、カトリック系住民と警察(プロテスタント系が要職を占める)が衝突し、住民らが周囲にバリケードを築いて立てこもった場所である。事件後、活動家たちがその場所を、警察や軍の入り込むことのできない、カトリック系住民だけの「自由なデリー」であると宣言した。いまもその場所の入り口の建物の壁に、大きな文字で「ここから先は“フリー・デリー”」と書かれている。

血の日曜日事件の犠牲者たちは、フリー・デリーを目前にして、凶弾に倒れたのだった。広場から臨むフォイ河の向こう岸に、瀟洒な家が建ち並ぶ住宅街が見えた。そこはプロテスタント系住民の地域。こちら側のフリー・デリー周辺には、カトリック系住民たちの質素な家並みが続く。両者の貧富の差は明らかだった。

 アンディは、アメリカから故郷に戻り、治療を経て病状が快復したころ、ある活動家の女性と知り合い、同棲をはじめた。女性はミリアムといい、小学校の教師だった。彼女はアンディとはちがってプロテスタント系だったが、カトリック系住民を支持し、北アイルランドとアイルランドとの統一をめざす政治活動に深く関与していた。アンディとミリアムは、IRA最高幹部の家の近くに住み、2人の間にできた男の子と女の子を育てながら、武装闘争の姿勢を強めたIRAとその政治組織であるシン・フェイン党を中枢で支えた。当時、カトリック系住民らは、治安活動のほか、教育や医療、裁判など社会活動のすべてを自前の組織でまかない、プロテスタント系の権力機構とはいっさい関わらなかった、という。カトリック系住民は、差別構造への抗議行動として、プロテスタント系住民の住宅街の電線網に自前の電線を絡め、自分たちの地域に引き込んで電力を「盗む」という行為までしていたという。

 そのころ、IRAはスペインなどで活動していたヨーロッパ大陸のほかの民族運動グループとも深い関係を持ち、アンディとミリアムは、テロ活動で当局から指名手配され、逃走中のこれらのグループの闘士を、時折自宅でかくまっていた。

(シャムロック)


 アンディは、紛争の歴史をあれこれ説明しながら、アイルランド人の愛する「シャムロック」について、教えてくれた。アイルランドには、毎年3月17日に「聖パトリックの祭り」を催す習慣がある。これは昔、アイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの命日を記念する祭りだが、国民の祝日のこの日を、アイルランド人は国をあげて祝う。そのとき、人々は必ずシャムロックを身につけるという。伝説では、聖パトリックはシャムロックの3枚の葉を用いて、父(神)と子(キリスト)、精霊の「三位一体」を人々に説明したそうだ。

 イングランド支配への抵抗運動のさい、アイルランド人は危険を冒してシャムロックを身につけた。そんな経緯から、祭りのときは祝杯のビールやジュースの底にシャムロックを入れるのがならわしだ、とアンディは話した。北アイルランドのアイルランド人にとっても、シャムロックを想う気持ちは同じ。シャムロックは、アイルランド人の心をつなぐ花なのだ、とアンディは言った。

 私たちに家を貸してくれたフランシスも、北アイルランドとアイルランドの統一を切望し、アンディたちとは政治信条をともにする「同志」だった。彼女は、アンディとミリアムの家にかくまわれたスペインの民族グループの闘士と恋に落ち、私たちが滞在する少し前まで、その家で彼と一緒に暮らしていたという。少数民族の抵抗運動家たちは、国境を越えて連帯意識を強めていた。フランシスはその男性と、抑圧者に対する怒りと民族の自尊心を共有し、愛情を育んでいったのだった。2人の関係はしかし、男性の逮捕、という事態を迎えて、終わりを告げるのだ。

 私は、フランシスの家の窓辺に置かれたクローバーが、シャムロックだったことを知り、はじめてフランシスの気持ちを知った。シャムロックの小さな葉っぱから、フランシスのアイルランド人としての誇りと、いまは牢獄にいる恋人に向けられた切ない愛情が、痛いほど伝わってきた。多年草のシャムロックは毎年、窓辺でひっそりと咲き続け、花をつけ、2人の愛情と苦しみを見てきたのではないだろうか。私は毎夕、フランシスの家に戻るたびに、その小さなシャムロックがとても愛しく思え、心を込めて鉢に水をやった。
 


 ロンドンデリーへの旅行では、アンディのパートナーのミリアムと深く話す機会は持てず、プロテスタント系のミリアムが、なぜそれほどまでカトリック系住民を支援するのかは、聞けずじまいだった。それからほぼ2年後の夏、私たちは再びアンディとミリアムを訪ねることになり、私はそのときに、はじめてミリアムの身の上話を聞いた。

(ドニゴールの海岸)


 それは、アイルランド北西部の「ドニゴール地方」にある、彼らの「海の家」を訪ねたときだった。そのころ2人は、毎年夏になるとロンドンデリーを離れて海の家に行くのを習慣としており、私たちをその年1週間、誘ってくれたのである。ロンドンデリーまで飛行機で飛び、そこから車でアイルランドに入り、ひたすら西へ西へと走った。

 あたりは、シャムロックがいちめんに咲き乱れる緑あざやかな牧草地と森の風景が続いた。北国の柔らかい夏の陽射しを受けて、シャムロックの緑が周囲にあわい光を放っている。「エメラルド・グリーンの島」と呼ばれるアイルランドは、このようなシャムロックに覆われた光景を指すのだろう。しかし、目指す地はドニゴールの北の端の大西洋岸である。やがてごつごつした丘陵地帯に入り、黒い岩盤の目立つ海が見えて、彼らの家に着いた。一帯は荒涼とした海岸線が続き、空は灰色の雲に覆われていた。人里離れたこの地の海辺で、ミリアムの生い立ちを聞いた。

 ドニゴールは、ミリアムの「心のふるさと」だったのである。彼女は生後間もなく、母親とドニゴールにやってきた。精神科医の母親は、結婚生活に敗れ、女ひとり、赤ん坊を連れて医師として僻地に赴任したのだという。母親はプロテスタント系アイルランド人で、金持ちの上流階級出身。祖先は、スコットランドからの入植者だった。ドニゴールへは、16、7世紀にイギリスの北アイルランドへの大規模な入植が行われた際、土地を追われた多数のアイルランド人が移住した。この地で、母親は「イギリスから来た上流階級出身の医師」として、村で特別扱いされた。

 ミリアムは、忙しい母に代わり、地元のカトリック系アイルランド人の乳母に育てられた。この乳母には13人の子どもたちがいて、ミリアムは一日の大半を彼らとともに過ごした。「一家は子どもたちに靴すら満足に買ってやれないほど貧しかったけれど、みんな底抜けに明るくて温かかった」。ミリアムは兄弟たちと一緒になって裸足になり、時間を忘れて海辺で遊び、丘を駆け回った。
 
 「少女時代、母に抱きしめてもらったことは、一度としてなかった」と、ミリアムは言った。母親は、幼少期をイギリスのアジアでの植民地だったインドで過ごし、大勢の現地人召使いに囲まれた暮らしを経験していた。「母には大英帝国の支配者の論理が染みついていた。母にとって、ドニゴールでの生活は植民者の生活の延長でしかなく、乳母一家ですら、 自分の召使いとして扱っていた」。
 

ドニゴールの海岸に咲いていたヒース
ドニゴールのアカツメクサ

 子育てを「召使い」に任せた母親と、あふれんばかりの愛情を注いでくれた乳母一家。感受性の強い少女の目は、支配する側のおごりと、支配される側の苦しみを内包する抑圧構造をしっかりととらえた。彼女は次第に、困難を生き抜いた大勢のアイルランド人が現代に直面する様々な矛盾を、解決しなければならないと強く思うようになった。
 ミリアムはその後、10歳から都会で寮生活を送ったが、ドニゴールでの日々は原体験となり、彼女を熱烈な愛国者として成人させた。北アイルランドに住み、祖国との統一運動に参加し、一時はテロ活動すらやむなし、との姿勢をとった。労働者階級出身で元司祭のアンディと知り合ったのは、このころだった。


 ミリアムに話を聞いたとき、海岸には、たくさんの紫色のヒースが咲いていた。そして、ヒースのあいだに隠れるようにして、シャムロックが葉を広げていた。ヒースもシャムロックも生命力が強く、ドニゴールの荒涼たる海岸でも緑を保ち、翌年には決まって前年よりも多くの花をつける。潮に洗われても子どもたちに踏まれても、けっして死に絶えないのだ。ミリアムは、ヒースやシャムロックのような強靭な精神力を、ドニゴールで身につけたのだった。折しも、私たちがドニゴールに滞在中の2005年7月末、IRAは武装闘争放棄を宣言した。ミリアムは海辺で、紫のヒースとシャムロックを摘みながら、「近い将来に、必ず(北アイルランドとアイルランドの)統一が実現するでしょう」と、言っていた。


×××


 ドニゴールを訪れてから、7年が過ぎた。この間、北アイルランドをめぐる情勢は、大きく変化した。IRAの武装解除が実現してから、事態は急速に動きはじめたのである。1990年代末にブレア首相のもたらした和平合意後、設置されていた議会は、和平が進まなかったために長いあいだ、機能停止に陥っていたが、2007年3月に選挙が行われて、活動を再開した。

 選挙では、プロテスタント系住民を代表する民主統一党(DUP)が第1党、カトリック系住民を代表するシン・フェイン党が第2党となり、民主統一党のイアン・ベイズリー党首が首相に、そしてシン・フェイン党のジェリー・アダムス党首が副首相に就任して、その他3党と連立する地方政府も誕生した(現首相は、ピーター・ロビンソンDUP党首)。その後、2011年5月にも再び選挙が実施されて、同様の連立体制が維持された。長い長い紛争のあと、互いに武器を向け合った宿敵同士が、ついに「協調体制」をつくり上げたのである。

 民主統一党はイギリスとの連合維持を、シン・フェイン党はアイルランドとの統合を主張する党是を、いまだに変えていない。しかし、連立政府は、目指すものを性急に実現しようとする姿勢を転換して、より現実的に、妥協点をさぐりながら、地域のための政治を行うことに重点を移したようにみえる。1997年に発足したブレア政権下では、イギリス連合王国内諸地域への「権限委譲」が積極的に進められ、スコットランドやウェールズでもそれぞれ議会と地方政府ができて、独自路線を歩みはじめていた。王国全体が「より緩やかな連合体」へと変化する流れに乗って、北アイルランドも、闘いにひとまず終止符を打ち、ようやく自分たちの道を歩みはじめたようだ。
 

(4000年前のゲール人の遺跡ーードニゴールで)

 さらにここ何年かに、重要な動きがいくつかあった。

 カトリック系住民たちの心に深い傷を残した「血の日曜日事件」をめぐり、ブレア首相は、真相究明のための委員会を設置していたが、10年以上続いた委員会の調査が2010年6月に終結し、イギリス軍兵士らが無防備のデモ隊に不当に発砲し、14人を殺害したことを全面的に認めたのである。これを受けて、イギリスのキャメロン現首相は即刻、議会で「この事件は決して起きてはならなかった。心から謝罪する」と述べ、正式に犠牲者の遺族らに対して誤った。

 また、今年6月には、エリザベス女王が在位60周年記念行事の一環として、北アイルランドの首都、ベルファストを訪問し、かつてのカトリック系住民武装闘争のリーダー、ジェリー・アダムス・シン・フェイン党首と握手するという、歴史的光景まで見られた。この訪問で、エリザベス女王は、なんとシャムロックの形をしたブローチを身につけて、アイルランド人に敬意を表したのである。

 このような状況のなかで、住民の意識にも、大きな変化が起きはじめている。ベルファストにあるクイーンズ大学が2010年に行った調査では、住民の73%までが、イギリスとの連合を保ちながら、地域の独自性を発揮していくことを望んでいた。カトリック系住民だけで見ても、半数以上の53%がこのような「連合のなかの独自性」を望んでいた。アイルランド共和国との統一を願うカトリック系住民は、この調査では3人に1人に過ぎなかったのである。

 また、ここ10数年、和平への歩みを継続して調査している民間機関が、今年3月に発表したリポートでは、北アイルランドの35歳以下の住民のあいだでは、これまで常にプロテスタント系が優位を占めていた人口比が逆転し、カトリック系住民が多数派になっていることが明らかになった。そして、大学など高等教育機関への進学者のうち60%までがカトリック系の若者で占められ、カトリック系の人々は職場でも多数派となりつつあり、上層部に進出していることもわかった。伝統的に出生率の高いカトリック系住民が、人口を格段に増やしただけでなく、高学歴となり、職場でも活躍している状況が浮かび上がり、かつての支配構造は大きく変化していることが判明したのである。

 カトリック系住民は、裕福になり、優位な立場に立ちつつある。にもかかわらず、アイルランドとの統一を望む人は減っている、、、。「将来像は、はっきり見えなくなった。自分が生きているあいだには、アイルランドとの統一はないかもしれない」。久しく話をしていなかったアンディに電話をかけると、彼はこう、言った。

(カトリック系住民の子どもが通う小学校。中央は息子)
(ヒース)

 いまだにプロテスタント系住民とカトリック系住民の居住区は別々で、双方の活動家の一部は時々、地域内で爆弾事件を起こしている。でも、住民の関心は、現在の枠組みのなかでいかにして、いがみ合ってきた者同士が「共存」し、よりより社会を作っていくか、に移っている、とアンディは話した。しかも、EU(欧州連合)域内で国境コントロールがなくなったことに歩調を合わせて、北アイルランドとアイルランドの国境も姿を消し、人々の往来は自由になった。アンディたちが政治運動にかかわったころに比べると、隔世の感がある。 

 もうひとつ、大きな要素がある。ここ何年かのユーロ危機のなかで、アイルランドは経済状態が極端に悪化し、瀕死の状況に陥っている。カトリック系住民があれほど統一を望んだ「母国」は、輝きを失っているのだ。アンディは、カトリック系住民のあいだでいま、アイルランド人古来の言語である「ゲール語」や、民俗伝承など文化の復興運動が盛んになっていると言った。抑圧者に対する反感と抵抗心を共有し、かつてはひとつの目標に注がれていた住民のエネルギーは、ちがった方向に向かっている。 
 
 アンディとミリアムを取り巻く環境も変わった。2人は、子どもたちが大学に進学したのを機に、別れて暮らすようになった。ミリアムはいま、教師の実績を生かして、地方政府の教育行政に関与しているという。

×××

 アイルランド人のシンボルであるシャムロックが、本当はどの植物を指すのか、じつはわかっていない。民族の象徴の正体を突き止めようと、19世紀の終わりに、アイルランドの植物学者が草花の行商人3人から「シャムロック」の苗を購入して育てたところ、それぞれ「シロツメクサ」、「アカツメクサ」、「レッサー・イエロウ・トレフォイル(黄花のクローバー)」に成長したという。1988年になって、別の植物学者がもっと大規模な調査をしようと、テレビやラジオで国民に呼びかけ、「シャムロック」の苗を郵送してもらったところ、届いた211鉢のうち、ほぼ半数がレッサー・イエロウ・トレフォイルに、3割強はシロツメクサに、残りはアカツメクサになったそうだ。そこで、アイルランド原産の黄花のクローバーが「シャムロックである可能性がもっとも高い」との結論になった。しかし、真相は闇のなか、である。

 でも、それでいいのかもしれない。シャムロックは「シンボル」なのだから。アイルランド人は19世紀半ばに起きた食糧飢饉などの困難を逃れ、多数が海外に移住した。ケネディ元アメリカ大統領もアイルランドからの移民だった。世界中に8000万人いると言われるアイルランド人が、毎年、「聖パトリックの祭り」を本国の人々と同じように大々的に祝い、シャムロックを身につけて、踊る。そのことが重要なのであって、どの植物が本当のシャムロックかを探ることには、あまり意味はないだろう。

 北アイルランドの将来も、白黒をつけるのではなく、シャムロックの正体のように謎のままでいいと、人々は思っているのかもしれない。いくつもある可能性のなかから、北アイルランドが将来どんな花をつけるのかは、それこそ、花が開いてみないとわからないのであろう。

(シロツメクサ)

※登場人物の名前は、仮名にしてあります。

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