月見草と私

2012年9月21日

 

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(北軽井沢で咲いていた月見草)

 

 あのとき、一輪の月見草が咲いていた。遠い昔の夏の夜、東京のマンションのベランダで、だれに見られるともなく花開いていた月見草のひそやかな美しさに、私は息をのみ、我を忘れた。

 青春の真っ盛り、20歳の夏だった。私は海外に住む両親の元を離れて、大学進学のために一人で日本に帰国していた。3年間の欧州生活を終えて再び母国に戻り、新しい生活を始めたが、日本社会への再適応に苦労し、足元を固めるのに懸命だった。自分の中の「日本」をもっと知りたい、との強い思いから、合気道に熱中し、近代日本史を専攻した。

 月見草は、その年の2月、一緒に暮らしていた父方の祖母が急死したため、一時帰国した母が鉢に植えて行ったものだった。忙しい昼間はつぼみをつけたことにも気がつかなかった。一日の喧騒が終わったあとの闇の中でひとり、花開いた月見草の凛とした姿は、行き先を求めてしゃにむに突進していた私に、「肩の力を抜きなさい。もっと自然に、ゆっくりでいいよ、、、」と語りかけるかのようだった。
 
 花は、若い私に、目先の日常からいっとき離れて、冷静に自分を見つめる心のゆとりを与えてくれた。そういえば、祖母が亡くなった厳冬の日、窓辺に真っ赤なシクラメンが咲いていたことを思い出す。まっすぐに林立したシクラメンは力強く、はじめて家族の死に遇い狼狽していた私に、人が亡くなったあとも生命は連綿と続いていくことを教えてくれた。


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 月見草に感動した夜から、長い年月が流れた。思えば花は、いつも人のかたわらにあって、静かにメッセージを放っている。私は人生の節目、節目で、花たちの声に決断を後押しされてきたように思う。

 私の最大の転機は、息子の翔音(しょうおん)が生まれた時に訪れた。

 

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 大学卒業後、新聞社に就職した私は、昼夜を問わない毎日を過ごしていた。それは、短距離レースを日々疾走するような生活だったが、キャリアを積むことに必死で、忙しさはいとわなかった。しかし、入社13年目に息子が誕生してから、仕事や人生に対する考え方が変わったのである。1年間の育児休暇中、翔音を乗せた乳母車を押して散歩に出かけながら、風のそよぐ音に耳を傾け、しだれ桃やハナミズキの木々が静かに、でも華やかに花をつけていく様子を観察した。すると、ときが止まったような不思議な感覚にとらわれ、人間の生は自然のいとなみや季節の移り変わりとともにあり、赤ん坊は未来に向かう生命力を備えた草木とともに、大きくなっていくことを知った。

 翔音が歩き始めると、手を取って近くの野原に出かけ、れんげやすみれを摘んで家に持ち帰り、飾った。花たちは、私に、仕事一筋の短距離走だけが人生ではない、時には「寄り道」をしながら、長い道のりをゆっくり歩いていくことも大切だ、と語りかけていた。

 私は新聞社を辞め、子どもの成長に合わせて自分のペースで仕事を続けていくことを決心した。


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 その後、二男、賢司が生まれ、私たち一家は賢司が2歳になった夏に、ロンドンに移り住んだ。イギリス生活は、はや11年。母親業と執筆活動を続けるうちに、息子たちは18歳と13歳になった。

 ガーデニング王国のイギリスでは、花と接触する機会がぐんと増えた。緑あふれるたくさんの公園で春夏に咲き誇る花々を観賞するだけでなく、一般の住民が家庭で育てるアジサイやバラ、フクシアなどの素晴らしさに毎年、見とれる。暮らしに根づく花と人の歴史に、自然と興味をひかれるようになり、いまは花の文化史も調べている。

 月見草に出会ったころ、高校時代を過ごした欧州でまた暮らすことになるとは思ってもみなかった。人生は、大きくカーブを切ったり、方向転換したり。でも、予測ができないからこそ、面白いのかもしれない。
 
 じつはこの9月、息子の翔音がイギリス北部のリーズ大学に入学し、親元を離れて寮生活を始めた。息子は大きなスーツケースに身の回りのものをいっぱい詰めて、出かけて行った。

 一緒に花を摘んだ小さな息子が、いまは大学生。その姿に、日本に戻って大学に通った数十年前の自分が重なる。あの頃は、「自分探し」の旅をはじめたばかりだった。息子もいま、自分探しの旅に出かけたのだ。
 
 時には立ち止まって、自身を見つめることが必要だろう。そのとき私は、月見草が私に与えてくれたのと同様のメッセージを、息子に伝えることができるだろうか。

 

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 (翔音--この夏、北軽井沢で) 

 

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(賢司--同)